ことばと国家

言語社会学というレポートの課題で書いているテーマです。

 

「ことば」というものを定義するのは実はとても難しいもので、どこからどこまでのずれを許容してどこからは別物とみなすのか、はかなりケースバイケースのようです。

例えば、「日本語」というくくりの中の方言として琉球方言と東北方言は存在します。ということは同じ「ことば」としてカウントされるわけですよね。

けれど、この2種類の方言は相互理解が非常に難しい、という事態が起こります。語彙の差が大きすぎるため。

標準語、と言われている日本語を介さなければかなり難しいそうです。

だったらヨーロッパの諸言語でも事態としては似たようになるのでは?と思います。

具体的には詳しくないのですが、陸続きになっている地域で用いられる諸言語間の差が琉球方言と東北方言より大きいとは思えません。東京方言とでさえ、琉球方言との差はフランス語とイタリア語の差に匹敵するという研究もあるそうです。

 

フランス語とイタリア語が別の言語で、琉球方言と東京方言ないしその他の日本語方言が同一言語とされるのは、ひとえに政治的理由に根拠を見出すことができます。

 

つまり、「国家が「ことば」を定義している」と言える例です。

ただ、これだと異なる言語圏の統合に際して不都合が生じます。支配的なことばと少数であったりして社会的に影響力の弱いことばが発生し、弱いことばの話者が不利益を被る機会が増えてしまいかねません。

 

では、逆に「ことばが国家を規定する」ことは考えられないでしょうか?

言語学ソシュールが提唱したのが「言語共同体」という概念でした。

同じことばを用いる集団を「国家」と定義することによって、こうした異なる言語間の摩擦を解消することができます。

すると言語間の優劣がなくなるので、各々の言語に特有の語彙や表現を保持することができます。

ソシュールが「言語共同体」を提唱したのは言語学的研究をより純粋に、社会的影響力を排除した状態で行うためでしたが、政治的摩擦の解消のヒントも含んでいるように思います。実際に、スペインでは全体の公用語としてのスペイン語の他に、バスク語カタルーニャ語を地域公用語として制定することで対立の緩和を試みているという例もあります。

こうして考えると、「ことばが国家を規定する」ということも考えられます。1つのことばが通用する共同体を国家として見ることに論理的な矛盾はありません。(国家とは何か、という定義に関して議論する必要はあります。)

 

グローバル化する社会の中で、英語が優位な現状を変えていくのは困難ですし、そうすることによる不具合も生じてくるでしょう。

そうではなくて、それぞれの言語を尊重し、多くの文化が共存していける社会の方が精神面で豊かさをもっていられるように思います。