これまでの学びの成果②

政治学についての関心が高まってきたということもあって、 リバタリアニズムの概念について何冊か本を読んでいました。

その中の一冊がこちら。

 

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

 

 

全くの初学者であってもわかりやすいように、とても丁寧に解説されています。

リバタリアニズムの立場では、経済的自由と個人的自由の両方を最大限に尊重します。自己の身体に対する所有権という考え方のもと、拘束からの解放や行動の自由が認められます。

ただし、他者の自由を侵害する権利を持つわけではないです。殺人とかは当然許容されず、あくまでも自己の範囲内の自由のみが認められます。将来の自分に対しても、気が変わるという風に厳密には他人という扱いもできるため侵害は許容されません。

 

自由の帰結としての制限・圧力は容認 格差はやむなし、絶対的な貧困の防止が市場の目国家(政府)の役割を最小限に制限することを唱えるのも特徴で、公共財の配布・福祉給付の決定といった範囲に権力をとどめることで国民の自由を守ろうというスタンスがとられます。同時に、市場原理に対する信頼がおかれ、普遍的なルールのもとでの自由競争は参加者全員にとって利益になるとします。競争の結果不平等が生じたとしても、自由の帰結であればやむを得ないとし、絶対的貧困さえ政府の介入によって防ぐことができれば問題ない、とします。

 

リバタリアンの立場での目的は「社会的進化の促進」です。そのためには個々人の能力を最大限発揮できるような環境整備が必要となり、国家による介入の多くは不当とみなされます。長期的な改革のもと、「小さな政府」への転換が必要になる、という論旨が主張されます。

 

現代社会は、歴史的に見ても自由度の高くなった社会であると思います。特に先進国においては、衣食住の自由はもとより自己実現についてもかなり可能性に満ちた社会になっているように見えます。身分や環境に制限されることなく、自身の能力で未来を創造できるようになってきたのは歴史的にはほんの最近のことです。

一方で、自由度が高まりすぎて本来の方向性を喪失するということも起こります。また、個人としての自由を活用しきれない環境下にいる人も依然として存在します。

「社会的進化」を目標として掲げるのであれば、こうした人にも平等にチャンスが巡ってくるような環境を作らなければいけません。そのために政府が存在し、セーフティーネットとしての機能を果たさなくてはいけないと考えられます。政府の存在があってこそ、挑戦が可能になり、社会全体の発展が可能になると言えるでしょう。